昭和41年10月18日 月次祭



 信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いと仰せられます。信心をしておれば、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多い。お願いをさせてもらいます。本当に、もうはっきり、神様のおかげだなぁと。本当に神様のお働きだなぁと、特別にそれを、実際に感じるようなおかげもございます。
 けれどもこれはおかげではない。これはもう当たり前。これは普通だという訳なんですけれども。教祖の神様はおかげの、目に見えぬおかげの方が多いと仰せられるのですけれども。実を言うたら残った全部はもっと素晴らしいおかげであるのです。多いのじゃないです。全部がおかげなんです。ですからもちろん本当にお願いをする、お取次ぎを頂く、おかげを受けると。そのおかげも素晴らしいことなんです。
 これは、まぁ、時々に、例えば、今日のお月次祭に、普通のお神酒は、普通のまぁ、常連の方達のお供えですよね。あのお神酒は。下にあの、月桂冠が、二本ずつの箱入りが、二つありますね。あれはね、一人は、お大祭を頂いて、帰らせて頂きましたら、思いがけない商いのおかげを頂いておったと言うて、翌日、御礼に、持って参ったんです。もう一つは、もう、この大祭が終わったら、入院でもしなければならないというほどの、これは、井上病院の方でした。
 大祭を済まして頂いて、もう、それこそ、たぎる様な喜びと感激で、家に帰らせて頂いて、そして、翌日、病院に参りましたら、もう、影がないと言われました。今朝から、あれ、御礼に出てきたんです。二つとも、確か、月桂冠です。話し合ったように。本当にこの、そういう風におかげを頂いてまいりますとです。もう、おかげと思わなければおられんのです。
 これは昨日一昨日十六日に、あの御大祭を皆さんが頂かれて。幾ら何と言うてもあの御大祭の雰囲気に浸らなければ、頂かれんものがあるのです。こら家から幾ら拝みよりますと言うても、それだけじゃ頂けないものがあるのです。御大祭の御比礼に浴してまだ色々申しますとまぁその、今日私がお取次ぎさせて頂いた様々なおかげのことでも、いわゆるおかげ話ですけれども、皆さんは本当におかげを被っておられます。
 人間関係の上にも帰らせて頂きましたら手の平を返す様なおかげを頂いておったという人も御座いました。今日は皆さんそういうおかげは、これは誰しもおかげと言わん訳には参りません、御礼参拝でもさせて貰わなければおられんので御座います。これは目に見えるいわばおかげなのです。目に見えぬおかげの方が多いと仰せられる。これは教祖の神様も表現を他に表現の仕様がおありにならなかったんであろうと思います。
 私は難はみかげと言う様な御教えを、実は難という言葉はないのだと申しておりますように、やはり難と言う言葉を使わなければです。その事が生きてこないから難と言う言葉をお使いになったんですね、四神様でも教祖の神様でも。けどもそういう教祖の神様、四神様二代金光様も御教えを頂いて、実際自分がその御教えを分からせて貰って、分からせて頂くともう実を言うたらこの世の中には難と言うようなものはないのだと。あるものは神愛だけなのだ。
 してみると目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多いと仰せられる、その目に見えぬおかげのほうが多い段じゃないのです。もう残った全部がみんなおかげなんです。それを実感しておかげと実感する。それは氷山の一角で御座いますから、目に見えるところは。それは目に見えませんから分かりませんけども、自分の心の上に感じる有難さと言うものを持ってです。
 自分が、に見えないおかげをこのくらいに分らせて頂きよるのだ、実感させて頂きよるんだと言う、おかげを頂いていかなければならんと私は思うのです。それを私共は不平を言うたり、不足を言うたり、難儀な事であるとか、困って事であるとか。そらしもうたねと言うような言葉を持ったり、態度をしたり表現をしておる訳で御座います。ですから言うならばもうその事が、既に神様に対するご無礼なんです。
 今日女子青年部のある方が、今度原さんところの一番下の、岩田屋に勤めております、千恵子さん。皆さんもご承知ですけど、大変結構なところから話が御座いました。縁につくことになります。ですからその親友の信心友達の方達が、はなむけをしたい。それでまぁ見事な大きな、あそこへございますが、あの額に色紙の入ったのを持ってまいりました。それで私に何か書けと言うわけなんです。
 ちょうど、私、ちょっと本を開けさせて頂いたところに、ちょうど、しおりのようにしてから、紙切れが入ってる。その紙切れに、もう、何時か頂いた、確かこれは、秋永先生だったとか思います。「天恵地利」と言う御教えが挟んでございましたから、もう、これこれと思うて、それを書かせて頂きました。天の恵みに、地の利と書いてございます。利益の利ですね。
 それを、私、書かせて頂きましてから、ま、これを、原さんにお渡しする時に、どういう風に、これを理解付けさせて頂こうかと思うてから、私は、神様にお願いさせて頂いておりましたら、もう、それこそ、もう、びっくりするような見事な字でですね、頂くんです。もう、それこそ、墨痕鮮やかな、もう、今書いたというような字ですね。それが、こう書いてございました。「天鏡地教」と書いてございました。天の鏡と書いてございました。ちきょうとは、地の教えと書いてございました。
 「天鏡地教」、これは、「天恵地利」と言う、ね。天の恵み、それに、地の利を頂いていかなければ、本当なおかげの成就という事にはならないのだと。まぁ、そういうおかげを頂かせていただくためには、私共が、いよいよ、天を鏡とさせてもらう。同時に、地が教えてくれるもの。大地が、私共に教えてくれるものを、教えられなければならないという御理解なんです。
 私共の周辺に起きてくる、例えば、只今申します、腹の立つことであろうが、難儀な思いをすることであろうが、様々な、どういう、それは、事柄でありましても、それは、私の心の状態、巡りの状態。それが、そのまま、天の鏡に映っておる姿であります。子供が言うことを聞かん。お金に難儀をする。とにかく、問題ばっかり起きて、心配が絶えない。それは、みんな、あなたの心が、あなたの家の巡りの姿が、そういう、天の鏡に映じておる姿なのです。
 それをそれと分からせて頂いて、それを大地が教えてくれる、そう言う様な信心で、それを受けていかなければならないと。地は私共にどういう事を教えてくれるか。大地は私共に、どう言う様な教えをされておられるか。皆さん今日は何時ものように、昨日一昨日あのような御大祭をいただいたんです。一日おいての今日のお月次祭は、何時もそれこそ私は、念じさせてもらうんですね。もうそれこそコカコーラの宣伝文句じゃないですけれども、スカッと爽やかなもの。
 今日はまぁ私が殆んど私が神饌させて貰いました。野菜だけが久保山先生が盛られました。こちらのおそうめんの方だけを、久富先生が盛られました。スカッと爽やかな感じが致しますでしょうが。お神酒はもう有難いもうお祭り前にある事を、熊谷さんと二人そこで後ろで話しよった。まぁ色んな話をしたり聞かせて貰ったり。けれども本当に有難いです。もう本当にあのそれこそそれが一切神様のお計らいなんですからね。
 本当に顔あげて泣こうごたる、熊谷さんと言いよったら、ほんなごて涙がこぼれた。私共は日々本当に有難いという事は、本当にスカッと爽やかな心の状態で、日々を過ごさせて頂いたらどんなにか有難いことであろうか。分らせて頂けば、本当にスカッと爽やかでならんのにも拘らず、皮肉の一つも言うて見たかったり、ね。ものに剣があったり悔やみごとになったり。
 目に見えるおかげより、目に見えんおかげのほうが多いと、はっきり教えて下さるのにその目に見えなければ、もうおかげではないように難儀であるように、困ったことであるように思わせて貰うて。思わせて貰うのじゃない思うてから。そして、それを、難儀なことにしてしまう。いわゆる、難儀な種を、また蒔く様な事を、言うたり、したりしておる。本当の信心が、分からせていただけれると言うことは、本当に、日々が、スキッと、それこそ爽やかに、日暮しのおかげの頂けれるをもって、初めて、本当の信心が出来ておったという事が言えると思う。
 本当な事が分かったという事が言えると思う。今日は、私、もう一時が、今日などは、もう本当に、初めてでございました。時間励行で、きちっと、八時半に、二階を降りさせて頂いたのは。もう本当に気分が良いです。そういうおかげを頂きたいと私は思う。ですから、今日、皆さんに聞いて頂く、その御教えもです。本当に、スカッと爽やかな御理解を頂きたいと思う。ですから、今日は、多くは申しません。
 ですから、教祖の神様の御教えを頂きますと、目に見えるおかげより、目に見えぬおかげのほうが多いと仰せられる。目に見えるおかげは、有難いのでございますから、それこそ、お神酒の一本も持って、直ぐにでも、御礼に出ろうごとあるけれども。自分の思うようにならないと、それは、おかげでないように思うておる。また、信心しておるのに、どうして、この様な事が起こるであろうか、続くであろうかと言うような事になって来ると、これは、信心も、いい加減なものだという事になって来る。
 これはもう、そげん、日参り、夜参りすることは要らんばいという事にまでなって来る。私共は、日々、本当に、スカッと爽やかな心の状態で、おかげをいただかせて頂くためにはです。どうでしょうかね、日々のお参りぐらいは。遠いとか近いじゃないです。今、秋永先生なんか、毎日、お日参りがあってる。今日はもう、二度目のお参り、福岡から。もう、しかもその、本当に、もう、分れば分かるほど、有難いことが一杯。または、お詫びしなければならんことが一杯。もうそれこそ、本当に、その、有難いおかげを受けて行かれよるなと、こう思う。
 それでも、昨日の朝でした、ある、お届けをなさっておられました。もう本当に、それは、素晴らしいことが分って行かれるです。こう、私がお取次ぎさせて頂くと。そしたら、その、本当に素晴しい事をお取次ぎさせて頂きよるんですよ。有難いなぁと。一生懸命、打ち込んでいきゃ、こういう事が分かっていくんだなぁと。そしたら、私の心眼に頂くのがですね。あの、蘭を頂くんです。蘭。しかもあの、蘭の花はない、今頃は、花がある時でしたかね。
 絵なんかに描きますと、もう花のない蘭なんてありはしません。もう必ず絵に描いてある欄は花がある。ところがほんなら四季を通じてです、花が咲くのは今頃だけなんです。それがその鉢植えにした蘭なら蘭をですね。ほんならもう花がないからつまらんとは言わんのです。やっぱりあれは、も、四六時中何時でもやはり、蘭は良いものです。私が頂きますのはその蘭です。私もその御理解がどういう様な事か分からん。けども私の心の中に、ずっとその思い出させて頂いた事がある。
 これはもう、二十年も前の話。その町のもう顔役でした。ある事でご神縁を頂いてから、そこの、一番大きな教会にご縁を頂いておる。そしてもう、その沢山子分なんかも居りましたからねぇ。子分達もお参りをする。もう親先生がどこかに出かけられると、どこにでも付いて回られる。それでもまぁ、あの時分はね、それこそもう、甘いもんなんかと言うものは、それこそ欠乏しておる時代でございました、二十年前には。
 そら、自分の家には、檜造りで、一部屋を、教会のようなお宮を作られました、だそうです。私は行った事がございませんから。そして、あちらに行ったら、何時でもその、牡丹餅があったり、善哉があるからと言うのでです。もう本当に、近所の、その、そこの関係の先生方が、いっちょ、善哉食べげ行こうじゃんのと言うごたる風で、もう行かれるほどに、素晴らしいおかげを頂いておる。
 例えば甘いもののなか時に、甘いものを出したり辛いものを出したりするものですから、人はどんどん集まる訳です。そして朝の御祈念に参ると、自分がおかげを受けておる事を、一生懸命話すもんですから、もうやはり一時お広前に御比礼が立ったんです。ところが一年ぐらいしましたらね。それがお終いになりました。皆んながその人を中心にして集まる。それこそ御道の教師の方達も、そこに集まられてから、信心の共励会が、月に一回ずつあっておる。
 私もそれは知っておりました。誘われましたけれども、私はもう行く気がしませんでしたから参りませんでした。そしてある時に、三代金光様あの御時代ですから。お参りなさってこの頃私の方で信者が沢山集まってから、信心の共励を致しよりますから。なにとぞ、どうぞその会に対して何か、会に名前を頂きたいと言うてそのお願いした。そしたら金光様が、御神米にお書き下げを下さった。わか・らん・会と書いてあった。
 若い蘭の会と。私はその時のことを思い出させて頂いたから、私は、その先生にそう言うて話したんです。もう既に金光様はね。その事をお届けする一年前からご承知だった。こら違わんごと分からんごとなってしまうしまいに。こらもう一年後には本当分からんごとなってしまった。本当に金光様のいわゆる、御神徳には恐れ入ってしまいました。それで、私が申しましたらある日に先生が、本当に先生おかげを頂いてこう分かって行きよるようにあるけれども、まぁだ本当言うたら分からん事が、どれだけあるやら分からんと言うことだと、私は思うと言うて、先生が言われるんです。
 はぁ、そうですばい、きっと。もう、金光様の信心は、これだけ分かったから、もう良いという事は、決してないのです。本当に、許されるならば、日に二遍でも、三遍でも、お参りをさせて頂きたいのです。そして、一言でも多く、御教えを頂きたいのです。そして、スカッと爽やかな心の状態をもってです。真に有難いという心を以ってです。次々と、おかげを頂いていく、おかげを現していくと言う、おかげを頂けれる、基礎土台と言うものを、本気で頂かせて頂かなければいけんのです。
 為には教えもいわばその深さと申しますか、教祖の神様がこの教えをもって何を分からせようとなさっておるかという、そこの所を分からせて頂いて身をもって心をもってそれを、自分のものにして行くというおかげを頂かせて貰わなければならない。私共も随分頂いて参りました。目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いという御教えを。所が私は今日思うた。とても多いというほどではないと。おかげと思わせて頂くそのお全部が全部、私の周辺に起きて来る一切の事柄が、おかげであるという事。
 そこの所を、私共はどのくらいな厚さ、または深さを持って有難いという心を頂かせて頂くかという事なのですから、限りがないのです。忙しいとか、忙しければ余計参れ。困った時だけのお参りじゃなくて、この頃からも頂ましたんですけれどね。信心は日々の改まりが第一と仰る。本当に苦しい時にはどうぞこの事を改まらせてもらいますから、どうぞおかげにして下さいと。もうこれは改まらせて頂きますからと言うて、お縋りをするんだけれど、またそうも思うております。
 人間苦しい時にはほんな信心は出来んといった様な事を。けれどもそんなこっちゃない。本当の有難さが分かってくるならば。本当のいわば目に見えないところに、おかげのおかげと感じさせて頂くようになったならばです。お広前に出させて頂いて御礼を申し上げなばおられんのである。ですから嬉しいと思うたら改まります。有難いと思うたら改まれと神様が教えて下さいます。苦しいと思うなら改まれそれも良かろう。
 けれども本当に有難いなら、本当に嬉しいなら、その嬉しい勢いで有難い勢いで、改まって行けとこう言うのです。あぁ今日もまた食べるために働かんならんと言うのが、私は、苦しいから改まるという事じゃろうとこう思うです。もう身が付いたら、また今日も御用に取り組まれる。自分の家業の行に取り組まれる。その家業が嬉しゅうして楽しゅうして応えんから、また楽して頂くという。もう大変な違いです椛目と。何時までたったらこげな風に働かにゃんじゃろうかと。
 苦労せんならんじゃろうかと、と言う働きは、それは苦しいから改まらせて頂くというのと、まぁよく似たものではなかろうかと私は思うのです。ですから有難い有難い楽しい楽しいで、御用をさせてもらいますから、身体の疲れがやはり御座いません。目に見えぬところのおかげを、本当におかげと分からせて頂くために。いよいよ「天恵地利」のおかげを頂かせて頂くために。どうでも「天鏡地教」の信心が日常生活の中に培われていくところのおかげを蒙らなければならない。
 そこにある姿が自分の姿なのだ。自分の家の巡りの姿なのだ。これを天の鏡に映じた姿であると分らせて貰い。そこのところを地が教えてくれる。大地が身をもって教えて下さるその事をです、どういう汚いものを持って行かれようが、土が踏みつけようがどんなに煩わしい、上から木の葉どん下に枯れ枝が落ちたり致しましても、それを大地は根肥しとしていくのだ。それをいよいよ見事な土地に浄化していくのである。
 そして、私に、煩わしい思いをさせた、その大地の根肥しにしていくようなおかげなのです。私の事を、悪口を言うた。その事を有難く受けた。そしたら、私も助かりゃ、そのまた、悪口を言うた、その人も、そういう因果を持って、助かって行けれるようなおかげになる。この、御大祭の時に、熊本から、野田さんという方がお参りをしておった。峰入り教会の総代をして、大きな鉄工所を営んでいる。
 奥さんと言うのが、四国の、真の道教の本部の、姪御さんに当たられる方を貰っておられる。ここちょうど、椛目のような風でございましたでしょう。どんどん助かる。それで、御道の教師になられて、そして、教会を持たれたところが、様々な問題が起こってくる。ですから、御道の教師を返上された。そして、真の道教と言う、その事を、金光様にお伺いされた時に、金光様がですね。
 やっぱ、金光教を作られたら宜しかろうという様な言葉を下げられたそうです。私共は、そんなことは、もちろん、考えもしません、思いも致しません。けども、そこは、だからもう、いよいよ、いわゆる、真の道教の本部という事になっておる。その支部が、どうもあの、国広さんところの近所にあるらしい。その本に書いてある。練塀町と言う。皆さん、知ってるかな。もうとにかく、もう、それは大変、一時はもう、御比礼が輝いた教会らしいですねぇ。
 そこから、何十年かの記念のお書物が送ってきている。厚い、二冊。ご伝記と、そこの教祖様と言われる方のご伝記と、それから、その、色々御理解を下さった、その御理解集というとを、二冊送ってきておる。それが、いわゆる八重、幾重にも幾重にも紙に包みましてね。その、糊で貼ってあるです。ちゃんと。もう直接、どうぞ、こちらの親先生に渡して下さいと言うて、私は、そこに行かなかったんですけれど。そう託をしてから、私に置いていっておる。開けてみたところ、その本であった。読ませて頂いてから、はぁなるほど、おかげを受けられる方は違うと、こう思うんですけれども。
 しかし、椛目の信心は、本当に素晴らしいなぁと、私は、いよいよ思うた。此の方はですね、悪口でも言いよったら、そんなことでも言いよったら、死んでも良かち言うち。してから、それこそ、そういう私の悪口なんか言う奴は、もう、でかでかと死んで良かと書いております。この辺に、もう、ばたばたという意味でしょうね。けども、これは、ある意味合いでは、私は、怖いことだと思うですねぇ。けども、やっぱりその、過程においてはですね、そういう事が、やっぱりないじゃないですね。
 私共の場合も、そんな事がございました。はぁ恐ろしいことだなぁと思うた。けども、問題は、そういう私の悪口を言うたと言う、因果です、それが、その悪口を言うた人も助かっている。例えば、親鸞聖人様ですね。親鸞聖人様の命を狙ったところの、「どんゆう」と言う山伏があった。ね。何度も何度も、命を狙うんだけれども、どうしても、それを殺すことが出来ない。そこで、とうとう、恐れ入ってしもうて、その、乞うて、弟子にして頂いた。ある時に、聖人様がお出かけになって、お帰りが遅いから、山道伝いのことであるから、その聖人様をお迎えに出た。
 そして、自分が、山伏をしておった時代の事を思い。または、聖人様の命を狙っておった時代の事を思うて、本当に、ちょうど、この道であった。この辺であった。何遍か、自分が矢をもって、その聖人様を危めようとしたんだけれども、とうとう、それを達することが出来ずに、恐れ入って、自分が、こうやって、有難い仏の道に使われておるということを喜んで。「この道は、今も昔も変わらない、代わりはてたる、わが心かな」と言う歌を作ったという事が書いてあります。私は、そう思うですね。
 徳を持って浄化していくという事です。とにかく、私の事を言うならば、恨んだり、憎んだりする人が、もし、あるとするならば。そういう縁を持って、その人が助かって行かれるような、おかげを頂かせていただかなければならんのだと。だから、ぐうぐうと言われても、腹かく事は要らん、乞食じゃと言われても、貰うて歩かなければ乞食じゃないのだと。そう言うておる人達も、何時かは分かって貰うて、なるほど、金光様のご信心は、有難いんだと分かってもらえるようなおかげを頂きたい。
 と言うような、私は、生き方こそが、本当は、教祖の神様の生き方ではなかろうかと、私は思う。そういう信心を、やはり、身に着けていかなければならない。どういう事があっても、言われても、それは、そのまま神愛なのだと。自分の、それが、心、または、家の鏡だと分からせて貰うて。その事に、御礼こそ、言われるのですけれども、そんな事言うたかと言うて、腹を立てる様な事は出来ません。私共、御道の信心を頂かせて貰う者はです。もう本当に、ここのところをですね。
 自分の物にしていくところの信心。出来はせんけれども、その、出来んと言うて、ほっておかずに、本気で、天の恵みは、天の恵みとさせて頂けれるおかげ。地の利をいただかせて頂くための、おかげを頂くためにです。「天鏡地教」に教えてくださる、そういうような周辺にね。いわば、自然に私共に、何時も囁きかけておる。何時も、こうあれと、その手本を示しておってくださる。
 大地の心を大地の心として、天の思いを思いとして、私共の、日常生活の上に、人間の上に、おかげを蒙っていかねばならぬ。もう、椛目のご信心は、実際言うたら、ここに尽きるのだ。ここんところを頂いて頂かねばならんと。そこに、日々が、スカッと爽やかなおかげが頂けるのだと。どうぞ、今日の、お月次祭。本当に、スカッと爽やかな、時間励行で、本当に、昨日一昨日、あぁいう、御大祭を奉仕させて頂いて。
 もう、やれやれと、実は、言おうごとあるのだけれども、どうして、今日、一日を置いて、今日のお祭りが、また更なものとして、更なこととして、こうしたお祭りが出来るかと。もう、遠い昔のような気がする。皆さんも、どうですか。昨日一昨日の御大祭が、まぁだそこに残っておる様な事はないですか。そらぁそうです。信心が、日に日にさらなのですから。もう遠い前のもの。そして今日は今日の、また、お祭りをです。
 さらな心で頂かせて貰えるということ。それこそスカッと爽やかな心の状態を求める信心。おかげを頂かせて頂くのも、スカッと爽やかな心に、いやが上にもまた、おかげが頂かせて貰えるのであり、お徳が頂かせて貰えるのでございます。どうぞ、一つ、今日の、この、四つの字が二つですから、八つの字をね、頭の中に、心の中に、どうぞ、広げて頂きたい。「天恵地利」「天鏡地教」これを一つ、本気で、自分のものにするために、恐らくは、生涯かけなければならんのでございますけれども。
 そるけん、まぁまぁ一年二年してから、まぁ十年ばっかり、先のほうでするごたるならと言うのではなくてです。もう今からどれだけ、一生懸命私共がならせて頂いても、もう、限りがないほどに、この御教えと言うものは、頂かなければならない、また、自分の物にしていかなければならない御教えなのでございますから。もう、明日とは言わずに、今晩から、その事に取り組んで、おかげを頂かねばならんと思うのでございます。
   どうぞ。